今度カレー食いに行きましょう

日記用のアカウント

220509

(5/9時点での記述)
【正しいこと】
少し繰り返している話になりますが、この連休を通して自分に新しく立ちふさがるものが出てきました。
それは「記憶は確かなのに認識があやふやになっている」ということです。
すみません、時間をおいてこの日記を書いているので先述した事項と被るところが多々ありますが
自分のためにもここはしっかりと書かせてください。

ただ、書いている内容はたいへん抽象的で大したことのない個人レベルの気づきです。
以下の全ては「勉強しろ」 これに尽きる話だと思います。

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5/2 芋タルトさんに上記の「記憶と認識のギャップ」について話しました。
最近つい数分前のことが夢のように感じる。
ハッキリと思いだせるはずなのに、自分がそこにいたのか怪しくなる。
日記を書き始めたくらいから、その意識が顕著になっている。そういったことを公園で吐露しました。

芋タルトさんからは、「それは自分の体験と他人の体験が混在しているからじゃないか」と言われました。
discordやオフなどで人の話を聞く機会が多くなり、それを日記のメモとして残しているのですが、そうすると
実際には体験していないトピックがまるで自分の体験のように記録されるのです。
そこが線引きをあいまいにしているんじゃないか、と。
芋タルトさんは日記を書く際、そこを気にしているようです。
自分の中に定着させる前に一度、それが自分から出た感覚であるか。もしくは見分した事実であるかを振り分ける意識をもって
日記やメモに書き留めると話してくれました。
たしかに、僕はそこを全く意識せず、話した話題も一緒くたに、並列して自分の記憶として留めていたと思います。
だから、いろんなことを見たり聞いたりしているのに、結果として自分がどう思ったかがハッキリしていない。
直近の自分は見識が広くなったようで、実際はそこにある「だけ」なんだと思いました。

語るに足りる知識がないんです。

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5/3にも自分を考えさせられる出来事がいくつかありました。
格ゲーオフの際、「ツインゴッデス」を手探りで遊んでいたのですが
OmegaZeroさんがその遊び方を調べてくれました。そうすると、出せる技が増えて一層楽しく遊べたわけです。
世の中には手探りで遊ぶことを良しとする動きもありますが、自分はそこに乗じているわけでもなく
ただ「より楽しむために調べる」という選択肢がなかった。
もちろん、映像制作の時にわからないことがあればその方法を調べます。
そういった問題解決のために調べることはするのですが、楽しむために調べる、検索をかける、ということはしなかった。
ここが、些細な瞬間ながらもかなりのターニングポイントでした。
先ほど言った、知識の摂取を行おうとしない自分がそこにいたんです。

また、夜に咲崎(♂)さんの生放送に出たときも自分の見識の狭さを思い知らされました。
というのも、同じくして参加していたたいうおさんと感想の内容に差があるのです。
僕のコメントは、見ればわかる表層の情報をただ言葉で書き起こしただけの感想を述べたのに対して、
他のお二方は内容や文脈、そのウマ娘のバックグラウンドやニコニコ動画内での扱いを理解したうえで発言していました。
振り返ってみれば、僕は所管を求められたとき上記のような表層の書き起こしに過ぎないことばかりを述べています。
要するに、言わなくても良い、他者が見ればわかることしか言っていないのです。

このことは僕がものを食べるときにも当てはまります。
僕はよく、外で食事をする際にどこがおいしいかを言葉に出すようにしています。
これは癖というよりも意図的で
・話の一環として間をつなぐ
・おいしいと思い込ませるために自分を説き伏せている
以上の理由があって事細かに描写しようとしているのです。
ここで気になっているのは後者で、おいしいと思ったからそれを言っているのではなく、
どこがおいしいのか自分で再認識させるために言葉にしているに過ぎないのです。
僕にとって感想を述べることは、他人に伝えるためというよりも、自分に伝えるためでしかない。

簡易的に言えば
【たいうおさんや咲崎(♂)さん】
「個人から湧き出る知識と感覚」を「普遍的な価値観」に提供する
【自分】
「普遍的な発見」を「個々人がそう受け止めるべき感覚」として反芻する

こういった逆転の状況が、周囲の人間のものの見方とのギャップになっています。
もちろん後者のようなコメントも世にはありふれていますが
それは僕が忌み嫌う「人の血が通っていないブログやSNSのアカウント」に近い文体です。

たとえば、廃墟を見たときに「廃墟は神秘的、だから美しい」というように、
個々に見られる特徴をいちど普遍的な枠組みに収めてから、あるべき知覚に帰結させている文章になってしまいます。
ここで自分に立ちはだかるのは
・なぜ、どこが神秘的なのか
・「美しい」という形容が結論として十分なのか
といった、より精細な描写の不足です。
近頃のSNSにおいてはこれを「解像度」という言葉でも示されると思います。

低い解像度のままに表層をとらえ、あたかも自分の感覚であるかのように述べる。
これが自分の感想にあった空虚さの原因だったのでしょう。
こういった感想を述べる人間を認めることも選択肢の一つですが、
周囲の個性的な動画投稿者に比べてみれば自分の言っていることは陳腐に映ってしまうんだろうなと。
引いてはこれまでの生放送での振る舞いすら、恥ずかしく思えてきました。

このことは翌日の夜discordでも話しました。
自分は意味のないことや普遍的なことしか言えていないと。
SNSのアカウントを増やして入出力の機会は増えたものの、それを活かせていない。
何を言っても言わなくていい所感しか言えない。そういった自分への反省をつらつらと話しました。
芋タルトさんからもたしかに「そういったアカウントのコメント群にはぎこちなさを感じる」と教えられ
ああやはり他者にもバレているんだな、と一層この事態が固定されていることを把握しました。
僕があのSNSアカウント群をこれ以上持ち続けたほうが良いか迷ったとき、
「自分のメリットになるかどうかで続けるかを選択するようにしている」とも教わりました。
その時、「見ている分には楽しいし、見る目が増えたのは事実だから日記含めて続けたい」と答えた気がします。

ぎこちなく見える自分でも、続けていく。
まだこういう習慣をつかみ始めて間もないのだから、続けることにメリットはあるだろうとして胸にとどめました。
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5/4は日中、那須ピーマンさん達と宇都宮を歩きました。

一度関わったことのある方ならわかると思いますが、那須ピーマンさんの話からは彼自身の特徴がふんだんに現れています。
他人を放っておけない人柄、地元に対する深い愛着、彼自身の行動力……。
これらが合わさった結果、那須ピーマンさんならではの多彩なエピソードトークが尽きないわけです。

それが一緒に地元を歩いた日となればもう話が止みません。建物一つ見ただけで無数の話題が上がる。
好きなことなら誰しもが語れるとは言いますが、宇都宮市内をバスで広く周ったにも関わらず話題が尽きないというのは
到底たどり着けないでしょう。
しかも、那須ピーマンさんの話には多くの登場人物も出てきます。
他人との関係性を含めて体系化しながら、彼なりの自虐じみたオチがある話を連発していく。
僕に足りないものをすべて活かして話しているんです。

今回の遠征で歩いた中には那須ピーマンさんも降りたことがない地域があったのですが、
それでも、その地域に広がる田園を見たときにも話が続きました。
「栃木の良さは水がきれいなことだから、こういう田んぼが近くにある家は珍しくない」
「この田んぼはまだ田植えから時間たってないね、耕耘機の車輪跡がハッキリしている」
「ここ数日実家にいて、少し前に田んぼの手伝いをしたからわかるよ」
……すごくないですか。知らない家の田んぼを見ただけでここまで広く話せるわけです。
この際情報の正誤は二の次です。僕が驚きを受けたのは、客観的事実を回収しつつも主観的な視点に持っていく話の構成です。
先ほども言った通り、僕は感想を述べるにしても表層を書き起こす程度しか言葉にできません。
しかし、那須ピーマンさんの話には起こっている事象に前後関係があります。

01 背景
「栃木の良さは水がきれいなことだから、こういう田んぼが近くにある家は珍しくない」
02 客観
「この田んぼはまだ田植えから時間たってないね、耕耘機の車輪跡がハッキリしている」
03 主観
「ここ数日実家にいて、少し前に田んぼの手伝いをしたからわかるよ」

以上のように、個々の文章にも全体の文章にも筋道が立てられています。
先ほど書いた、同じような話しかできない自分とは大違いです。

極端な例ですが、ここまで自分にないものを突き付けられると、応えますね。
普段の体験がどれほど自分のためになっているのだろうと、良い意味で打ちのめされました。

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5/5は都内のスーパー「ライフ」をめぐった日でした。
この日一緒に歩いたのはたいうおさん。この方も大変ウィットに富んでいて、話の面白い方です。

スーパーの光景をずっと浴びていたため認識にブレが発生した一日、と先ほどは書きましたが
実際のところ別の理由もあります。それはたいうおさんもずっと面白かったためです。
何点か彼の行動を思い起こしてみましょう。
・普通に歩道を歩いていたところ、勢いをつけた自転車からベルを鳴らされ、
 そのあとすれ違いざまに「チモシー!ピンプクー!」と大声を出したこと
・少し狭いモノレールの中、地元の方が続々と乗ってきたときに
 「なんかバスみたいで居心地悪いですね」とハッキリ口にしたこと
・公園でお昼を取っていた我々に寄ってきた雀へ、僕が「違うよ」と言って退けていたのに対し
 たいうおさんは「違わないよ、違わないよ」と言って寄ってくる雀に無抵抗だったこと
・「僕このキウイのキャラ苦手なんですよ」といいながら手元の距離にいるぬいぐるみを小突いたこと
道中もいろいろ面白かった発言が多かったんですが、特に印象的だったのはこういったことですね。
移動も多い中でこのテンションを10時間以上保っていたのがすさまじいです。

まあ、一部からは反感を買いかねませんが、個人的にはそれがずっと面白い人なので、僕からすると素直に憧れはあります。
トラブルに巻き込まれたくはない性分なのでそういった振り切った衝動をなかなか形にはできないです。

それで、一見は手あたり次第暴れているように見えるんですが、これはご本人も言っている通り「ロジカル」ではあるんですよね。
意味不明な行動と思いきや動機がある、独自の言語や行動でもってしてそれを表明している、というのは
貫かれた美学の強度が高いとも言い換えられるのではないでしょうか。

そして、それらの行動に決して共感がないわけでもない。むしろ共感しかないくらいです。
「言いたいことを言う」「やりたいことをやる」という点では自分にない要素が別ベクトルで存在しています。
普遍的なことしか言えず、閉塞感を抱いていた僕にとって、「ずっと面白いことが言える」たいうおさんが
那須ピーマンさん同様にまたしても自分に対して突き付けられるような感覚を覚えました。

あとすみません、これは誤解してほしくないんですが決して他人に負い目を感じているということではなく、
ただ自分とは異なる視点が事実としてそこに在るということに「気づいた」程度ではあります。
逆に今まで僕は音MAD関係者さんたちと無自覚に関わりすぎていたのかもしれませんね。

美学に則って面白さを貫ける姿勢が僕にはあるのだろうか、と省みた一日でもありました。

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5/6 某氏と会うため、秋田へ向かいました。
新幹線での長い移動時間中、僕はそれまでの事象をまとめていました。

・見たものが多くても、表層だけの感想が点在するだけで、話が普遍的な形容詞に留まってしまう。
・論理や内容を語るに足る知識を得る手段「調べる」ことすら、選択肢から消えていた
・体系や論理、話や行動を組み立てるうえでの美学が自分には欠落している

物は言いようなのかもしれませんが、なんとな~く、僕が今置かれている状況を浮き彫りにしていきました。
ただ、せっかくの東北遠征なのに妙な考え事をして集中できないのももったいないか……と思い
その時点では「あの人のように自然体を目指し、あの人のように具体的な話をしよう」という風に丸め込んで
気持ちをいったん切り替えるようにしました。

秋田の道中はずっと車に乗せていただいていた方と話していたんですが、そこではまた音MADに関する内面的な話になりました。
あまり詳しく書くとその方の輪郭につながりそうなのでここは概要として書きますが、
その方はかなり人を見ている方で、音MADの話になった時に「この点はこの人を目指したい」というのが多く出ました。
この話はまさしく、新幹線に乗っていた時に考えていたことと重なるというか
なりたい自分のモデルのヒントとして、具体的な他者を持ち出すことに背中を押してくれる時間でした。

人を見て行動することも動機たり得るんだと、改めてわかった時間でもあります。
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5/7-8
僕は上記の体験で考えたことを改めてスペースやdiscordで話しました。
「自分が普遍的なコメントしか言えなくなっていることに最近気づいた。
 せっかく何かを認識してもそれがすぐに夢のように思えてしまって、漠然とした話しかできない。」
こういう話をしたとき、提示されたことが3つあります。

・体験が経験として定着していないので、まずは名前を調べてみましょう。
・読解力が不足していることも原因だと思うので、本を読みましょう。
・広く浅い人って関わりやすいし、そのままでもいいんじゃない。

どれもごもっともな意見だと思います。
なんなら最初に頂いた「名前を覚える」という話は納得する所が多いです。
知識があれば見分も話題も自覚的になる。僕が抱えるいろいろなことが解決しそうです。

特に直近で抱えていたのが「花の名前がわからないので、人とその話を共有して深堀りできない」ことがありました。
花などに興味関心をもって写真を撮っているものの、楽しむために調べる癖がないからただ気持ち悪い、で終わる。
そんな刹那的な消費の仕方はもったいないな、と感じ始めてきたのです。
そういった点でも名前を覚える心がけはダイレクトに刺さりました。

最初にも述べた通り、「勉強しろ」要するにこれ以外ないんです。
まだニワカな段階なのに、さも自分の経験のように半端なまま語ってしまう。
このままでは、認識と体験が瓦解し、より一層日々の捉え方が曖昧になっていくでしょう。

この状況を脱却するためにも、まずは目の前にある植物の名前から知っていかなければと思います。

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【正しくないこと】
ただすみません、少しこの先の文章は気味が悪くなるかもしれませんが、本当に素直な自分を言えば
僕は結構、3つ目の発言を他人から言われたことに救われたような気持ちがありました。

そもそもの僕の行動原理は「多くの音MAD関係者の方々と交流を続けたい」ということに尽きます。
これを口に出してしまえば薄っぺらいのかもしれませんが……。
ただ、これはどうあっても逃れられないところとも思います。今この時も変えたいと思いません。
上の3つ目の提示はそんな自分にとって、初めて肯定されたような気がして、大変にうれしかった。

ですが、この発言の意図はわかりません。根拠も特に伺っていないです。
すみません、たぶん話の流れとして正しくない選択肢だったので、特に掘り下げてはいなかったのでしょう。
後追いにはなりますが、この発言の意図を自分なりに良きように解釈してみたんですが
「広くて浅いからこそ、いろんな人に関わろうとする軽さがある」と思いました。

……いや、無理な曲解ですかねこれは。 おそらく「正しくない」です。
普通に話の上手い人って見識はありますし、ちゃんと本筋を複数人に展開できるだけの器量を持ち合わせています。
僕はただ浅いだけなので、聞いても聞いても本筋以外のことばかり話してしまいます。
あれ、シンプルにこれも問題な気もするんですが……。あれ。
これはもう課題として、自分の話をしすぎ!というのも感じているのでここは直したい。

また、それこそ芋タルトさんから言われた「その選択がメリットになるかどうかを判断する」というのも
自分を肯定するためのヒントとしてあったりします。
今、変化することで優先すべきメリットがあるかと言われると……「自分を変えたい」とは一概に言えませんね。
ある程度の曲解がある今の方がよっぽど楽しいです。妙なところを気にしてしまう自分がいるから、
街を歩く時の発見が多いということも認めたいのです。したがって、広く浅い自分に嫌気がさしているわけでもありません。

昨晩、BaN長さんとも上で書いたような話を軽くしました。曰く、BaN長さんも自身のことを「広く浅い」と捉えているようです。
(僕からすればBaN長さんは広く深いんですが……)
ただ、BaN長さんは一度体系的に勉強しようとしたうえで、それができない、自分には向いていないと判断したようです。
だからこそ「広く浅い」意識に振り切った。その結果が、音楽やテレビなどのディグにつながっているそうです。
自分の場合はそもそもとして

こういうことをここに書く自分は変わっていないのかもしれませんし、すでに変わっているのかもしれませんし
自覚もしているかしていないのか、そんなに美学を追及しているわけでもありません。
相変わらず曖昧な認識のままでこの文章を書いています。

「趣味は認識 特技は誤謬」というのを@AlarmOneOclockのbioに記されていますが、これは当時こそ何の気なしにつけたものの
今となってはかなり信頼のおけるフレーズになっています。

ですが、世の中には広く深い人間がいるのも事実です。
実際、秋田でお会いした方も僕からすればそういった方であり
もしかしたら、自分の目指すスタンスとしてはあの方が到達したいところなのかなあ……とも思いました。

おそらくこれまで言ってきたことへのハッキリとした正しい回答は「勉強しろ」となるでしょう。
しかし、今の自分にとっての命題は「植物の名前を勉強すべきか」ということになっていきそうです。



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(5/15時点での記述)
【今考えていること】
これまでの記載事項も過去のことになりました。
今言えるならば「現時点では自分の輪郭を明確にしない方が良さそうだな」というのがあります。なんか、これ以上考えたところで窮屈になるだけかもしれないなとも思えて来た。
ただ、やっぱそろそろ寝ないと行けないのと、でもここで日記出さないと溜まって行く一方なのでリアルタイムでガシガシ書いていきます。

まず、記憶が確かなのに認識があやふや、というのが悩みになっていた理由には二つあって
・寝る前に夢を見る
・一日の時間が短い

で、このままだとどんどん毎日が高速になって曖昧になっていくのだろうかと思って不安になるような気分が4月末くらいにあったと思います。
それを各人に吐露したのが連休中。諸々自分にはない観点を聞けてよかったですね。
そうした中で上記のような「勉強する習慣を身につけて変化しなければと思った」とも考え始めた次第です。

ただ、興味が増えて勉強することが出て来たとはいえ、事実ではないことをそのままに表層だけをさらっている瞬間が事実を知ったその時よりも大変に楽しい。
これはもう、ごめんなさい、不道徳だとは思いますが
自分は勉強していないことによる楽しみを享受しているとも思います。
誤謬を楽しむ節があるというか。決して正しくないその認識が興味の手がかりにもなっているというか。誤謬を楽しむようになってから、明らかに認識の範囲は広くなっているとは思います。良いか悪いかで言ったら悪いことなのかもしれませんが。

でも、知識を得ることを避ける必要もないよな、とも思っている次第で
点在する認識を集約させる時間は持ちたいともおもっています。それが以前の日記で書いた「地続きにする」行程なのかなとも。

今は自分のための文章を書く時間が欲しいですね。散らばった時間を一つの精神性に定着させる時間が。


もうコロコロ言っていることが変わっています。寝ます。明日から日記再開します。