今度カレー食いに行きましょう

日記用のアカウント

220519

今日も何もしてません。

ちょっと遠出していたんですが、偶然たいうお氏と遭遇しました。
まあなんとなく出くわしてもおかしくはなかったんですが、こうも被るとは……。

昼休憩の時、ご飯とか散策とかでもなく、「ただ外に出る」やつやってしまいます。
それ夢遊病ですよって言われたんですが、実際そうなんですよ。
見慣れた道を往復して、くたびれた成人男性をずっと見るくたびれた成人男性。
いっそくたびれた成人男性が集う場所を探したくなってきました。

姿勢が悪いなと思います。良くしようというわけではないんですが、ダイレクトに首が痛いので気を付けたい。
いつのまにかかなり顎が出てるみたいな話、聞きますし自分もそうなっていますからね。
机に座りながら姿勢よくするってあんまりできないです。目線がつい別の方向に行ってしまう。目の筋肉だけ動かす意識を持てばいいんだろうか。というよりも画面の位置が下すぎるのか?

220518

嘘が枯渇してきた
いやたぶん言おうと思えば何でもそうなるんでしょうけど、なんかね……
同じパターンでしか文章が生成されていないのが妙に意識されちゃって
仕事ある日は30個嘘つこうとしてたんですけど、明日からは10個くらいにしようかな

嘘を見返していると本当に「無意識」は存在するんだなあと思います
朝、通勤電車に乗って書いていたはずの文章が、出勤してから見返すと本当に描いた覚えがない、というのがザラです
別に努めるような行為でないことは分かっているんですがね
まあ、それでも、自分で何かしら継続させようとは思っているので、そのためのスパイスはいくらでも検討していきたい所存です

220516

相も変わらず、何も生み出せてませんという状況です
連絡だったり収録だったりはしているんですけどね……。
いや、そもそもとして思いついていない ただ手を動かしているだけの日々です。
これがあと数か月くらい続くんじゃないでしょうか。
数か月単位で終わればいいんですが。
ここ数か月映像が何も形になっていないのもしんどい。

今日ちょっと収録で出かける用事があったんですが、その帰りの電車で
普通に頭がグッと締め付けられるような感覚に襲われて、怖くなりました。
最近ロクに寝ていなかったせいかな……たしかに昨晩も6時に寝たのに全く日中眠くなかったしな……などと思い当たる節は多々あります。
30歳に突入したら体の不調が現れるとは言いますが、せめて30歳までは身体持ってほしい。それ以降は考えてないです。

諸々の見通しが甘い人間なので、ロクな死に方しないんだろうなと思いながらずっと生きています。金銭面は危うい。まったく支出と収入を考えていないので。
その日暮らしで生きています。

 

まあ寝不足でしょう。考えすぎです。 今日は(比較的)早めに寝ます。

220509

(5/9時点での記述)
【正しいこと】
少し繰り返している話になりますが、この連休を通して自分に新しく立ちふさがるものが出てきました。
それは「記憶は確かなのに認識があやふやになっている」ということです。
すみません、時間をおいてこの日記を書いているので先述した事項と被るところが多々ありますが
自分のためにもここはしっかりと書かせてください。

ただ、書いている内容はたいへん抽象的で大したことのない個人レベルの気づきです。
以下の全ては「勉強しろ」 これに尽きる話だと思います。

---------------
5/2 芋タルトさんに上記の「記憶と認識のギャップ」について話しました。
最近つい数分前のことが夢のように感じる。
ハッキリと思いだせるはずなのに、自分がそこにいたのか怪しくなる。
日記を書き始めたくらいから、その意識が顕著になっている。そういったことを公園で吐露しました。

芋タルトさんからは、「それは自分の体験と他人の体験が混在しているからじゃないか」と言われました。
discordやオフなどで人の話を聞く機会が多くなり、それを日記のメモとして残しているのですが、そうすると
実際には体験していないトピックがまるで自分の体験のように記録されるのです。
そこが線引きをあいまいにしているんじゃないか、と。
芋タルトさんは日記を書く際、そこを気にしているようです。
自分の中に定着させる前に一度、それが自分から出た感覚であるか。もしくは見分した事実であるかを振り分ける意識をもって
日記やメモに書き留めると話してくれました。
たしかに、僕はそこを全く意識せず、話した話題も一緒くたに、並列して自分の記憶として留めていたと思います。
だから、いろんなことを見たり聞いたりしているのに、結果として自分がどう思ったかがハッキリしていない。
直近の自分は見識が広くなったようで、実際はそこにある「だけ」なんだと思いました。

語るに足りる知識がないんです。

---------------
5/3にも自分を考えさせられる出来事がいくつかありました。
格ゲーオフの際、「ツインゴッデス」を手探りで遊んでいたのですが
OmegaZeroさんがその遊び方を調べてくれました。そうすると、出せる技が増えて一層楽しく遊べたわけです。
世の中には手探りで遊ぶことを良しとする動きもありますが、自分はそこに乗じているわけでもなく
ただ「より楽しむために調べる」という選択肢がなかった。
もちろん、映像制作の時にわからないことがあればその方法を調べます。
そういった問題解決のために調べることはするのですが、楽しむために調べる、検索をかける、ということはしなかった。
ここが、些細な瞬間ながらもかなりのターニングポイントでした。
先ほど言った、知識の摂取を行おうとしない自分がそこにいたんです。

また、夜に咲崎(♂)さんの生放送に出たときも自分の見識の狭さを思い知らされました。
というのも、同じくして参加していたたいうおさんと感想の内容に差があるのです。
僕のコメントは、見ればわかる表層の情報をただ言葉で書き起こしただけの感想を述べたのに対して、
他のお二方は内容や文脈、そのウマ娘のバックグラウンドやニコニコ動画内での扱いを理解したうえで発言していました。
振り返ってみれば、僕は所管を求められたとき上記のような表層の書き起こしに過ぎないことばかりを述べています。
要するに、言わなくても良い、他者が見ればわかることしか言っていないのです。

このことは僕がものを食べるときにも当てはまります。
僕はよく、外で食事をする際にどこがおいしいかを言葉に出すようにしています。
これは癖というよりも意図的で
・話の一環として間をつなぐ
・おいしいと思い込ませるために自分を説き伏せている
以上の理由があって事細かに描写しようとしているのです。
ここで気になっているのは後者で、おいしいと思ったからそれを言っているのではなく、
どこがおいしいのか自分で再認識させるために言葉にしているに過ぎないのです。
僕にとって感想を述べることは、他人に伝えるためというよりも、自分に伝えるためでしかない。

簡易的に言えば
【たいうおさんや咲崎(♂)さん】
「個人から湧き出る知識と感覚」を「普遍的な価値観」に提供する
【自分】
「普遍的な発見」を「個々人がそう受け止めるべき感覚」として反芻する

こういった逆転の状況が、周囲の人間のものの見方とのギャップになっています。
もちろん後者のようなコメントも世にはありふれていますが
それは僕が忌み嫌う「人の血が通っていないブログやSNSのアカウント」に近い文体です。

たとえば、廃墟を見たときに「廃墟は神秘的、だから美しい」というように、
個々に見られる特徴をいちど普遍的な枠組みに収めてから、あるべき知覚に帰結させている文章になってしまいます。
ここで自分に立ちはだかるのは
・なぜ、どこが神秘的なのか
・「美しい」という形容が結論として十分なのか
といった、より精細な描写の不足です。
近頃のSNSにおいてはこれを「解像度」という言葉でも示されると思います。

低い解像度のままに表層をとらえ、あたかも自分の感覚であるかのように述べる。
これが自分の感想にあった空虚さの原因だったのでしょう。
こういった感想を述べる人間を認めることも選択肢の一つですが、
周囲の個性的な動画投稿者に比べてみれば自分の言っていることは陳腐に映ってしまうんだろうなと。
引いてはこれまでの生放送での振る舞いすら、恥ずかしく思えてきました。

このことは翌日の夜discordでも話しました。
自分は意味のないことや普遍的なことしか言えていないと。
SNSのアカウントを増やして入出力の機会は増えたものの、それを活かせていない。
何を言っても言わなくていい所感しか言えない。そういった自分への反省をつらつらと話しました。
芋タルトさんからもたしかに「そういったアカウントのコメント群にはぎこちなさを感じる」と教えられ
ああやはり他者にもバレているんだな、と一層この事態が固定されていることを把握しました。
僕があのSNSアカウント群をこれ以上持ち続けたほうが良いか迷ったとき、
「自分のメリットになるかどうかで続けるかを選択するようにしている」とも教わりました。
その時、「見ている分には楽しいし、見る目が増えたのは事実だから日記含めて続けたい」と答えた気がします。

ぎこちなく見える自分でも、続けていく。
まだこういう習慣をつかみ始めて間もないのだから、続けることにメリットはあるだろうとして胸にとどめました。
---------------
5/4は日中、那須ピーマンさん達と宇都宮を歩きました。

一度関わったことのある方ならわかると思いますが、那須ピーマンさんの話からは彼自身の特徴がふんだんに現れています。
他人を放っておけない人柄、地元に対する深い愛着、彼自身の行動力……。
これらが合わさった結果、那須ピーマンさんならではの多彩なエピソードトークが尽きないわけです。

それが一緒に地元を歩いた日となればもう話が止みません。建物一つ見ただけで無数の話題が上がる。
好きなことなら誰しもが語れるとは言いますが、宇都宮市内をバスで広く周ったにも関わらず話題が尽きないというのは
到底たどり着けないでしょう。
しかも、那須ピーマンさんの話には多くの登場人物も出てきます。
他人との関係性を含めて体系化しながら、彼なりの自虐じみたオチがある話を連発していく。
僕に足りないものをすべて活かして話しているんです。

今回の遠征で歩いた中には那須ピーマンさんも降りたことがない地域があったのですが、
それでも、その地域に広がる田園を見たときにも話が続きました。
「栃木の良さは水がきれいなことだから、こういう田んぼが近くにある家は珍しくない」
「この田んぼはまだ田植えから時間たってないね、耕耘機の車輪跡がハッキリしている」
「ここ数日実家にいて、少し前に田んぼの手伝いをしたからわかるよ」
……すごくないですか。知らない家の田んぼを見ただけでここまで広く話せるわけです。
この際情報の正誤は二の次です。僕が驚きを受けたのは、客観的事実を回収しつつも主観的な視点に持っていく話の構成です。
先ほども言った通り、僕は感想を述べるにしても表層を書き起こす程度しか言葉にできません。
しかし、那須ピーマンさんの話には起こっている事象に前後関係があります。

01 背景
「栃木の良さは水がきれいなことだから、こういう田んぼが近くにある家は珍しくない」
02 客観
「この田んぼはまだ田植えから時間たってないね、耕耘機の車輪跡がハッキリしている」
03 主観
「ここ数日実家にいて、少し前に田んぼの手伝いをしたからわかるよ」

以上のように、個々の文章にも全体の文章にも筋道が立てられています。
先ほど書いた、同じような話しかできない自分とは大違いです。

極端な例ですが、ここまで自分にないものを突き付けられると、応えますね。
普段の体験がどれほど自分のためになっているのだろうと、良い意味で打ちのめされました。

---------------
5/5は都内のスーパー「ライフ」をめぐった日でした。
この日一緒に歩いたのはたいうおさん。この方も大変ウィットに富んでいて、話の面白い方です。

スーパーの光景をずっと浴びていたため認識にブレが発生した一日、と先ほどは書きましたが
実際のところ別の理由もあります。それはたいうおさんもずっと面白かったためです。
何点か彼の行動を思い起こしてみましょう。
・普通に歩道を歩いていたところ、勢いをつけた自転車からベルを鳴らされ、
 そのあとすれ違いざまに「チモシー!ピンプクー!」と大声を出したこと
・少し狭いモノレールの中、地元の方が続々と乗ってきたときに
 「なんかバスみたいで居心地悪いですね」とハッキリ口にしたこと
・公園でお昼を取っていた我々に寄ってきた雀へ、僕が「違うよ」と言って退けていたのに対し
 たいうおさんは「違わないよ、違わないよ」と言って寄ってくる雀に無抵抗だったこと
・「僕このキウイのキャラ苦手なんですよ」といいながら手元の距離にいるぬいぐるみを小突いたこと
道中もいろいろ面白かった発言が多かったんですが、特に印象的だったのはこういったことですね。
移動も多い中でこのテンションを10時間以上保っていたのがすさまじいです。

まあ、一部からは反感を買いかねませんが、個人的にはそれがずっと面白い人なので、僕からすると素直に憧れはあります。
トラブルに巻き込まれたくはない性分なのでそういった振り切った衝動をなかなか形にはできないです。

それで、一見は手あたり次第暴れているように見えるんですが、これはご本人も言っている通り「ロジカル」ではあるんですよね。
意味不明な行動と思いきや動機がある、独自の言語や行動でもってしてそれを表明している、というのは
貫かれた美学の強度が高いとも言い換えられるのではないでしょうか。

そして、それらの行動に決して共感がないわけでもない。むしろ共感しかないくらいです。
「言いたいことを言う」「やりたいことをやる」という点では自分にない要素が別ベクトルで存在しています。
普遍的なことしか言えず、閉塞感を抱いていた僕にとって、「ずっと面白いことが言える」たいうおさんが
那須ピーマンさん同様にまたしても自分に対して突き付けられるような感覚を覚えました。

あとすみません、これは誤解してほしくないんですが決して他人に負い目を感じているということではなく、
ただ自分とは異なる視点が事実としてそこに在るということに「気づいた」程度ではあります。
逆に今まで僕は音MAD関係者さんたちと無自覚に関わりすぎていたのかもしれませんね。

美学に則って面白さを貫ける姿勢が僕にはあるのだろうか、と省みた一日でもありました。

---------------
5/6 某氏と会うため、秋田へ向かいました。
新幹線での長い移動時間中、僕はそれまでの事象をまとめていました。

・見たものが多くても、表層だけの感想が点在するだけで、話が普遍的な形容詞に留まってしまう。
・論理や内容を語るに足る知識を得る手段「調べる」ことすら、選択肢から消えていた
・体系や論理、話や行動を組み立てるうえでの美学が自分には欠落している

物は言いようなのかもしれませんが、なんとな~く、僕が今置かれている状況を浮き彫りにしていきました。
ただ、せっかくの東北遠征なのに妙な考え事をして集中できないのももったいないか……と思い
その時点では「あの人のように自然体を目指し、あの人のように具体的な話をしよう」という風に丸め込んで
気持ちをいったん切り替えるようにしました。

秋田の道中はずっと車に乗せていただいていた方と話していたんですが、そこではまた音MADに関する内面的な話になりました。
あまり詳しく書くとその方の輪郭につながりそうなのでここは概要として書きますが、
その方はかなり人を見ている方で、音MADの話になった時に「この点はこの人を目指したい」というのが多く出ました。
この話はまさしく、新幹線に乗っていた時に考えていたことと重なるというか
なりたい自分のモデルのヒントとして、具体的な他者を持ち出すことに背中を押してくれる時間でした。

人を見て行動することも動機たり得るんだと、改めてわかった時間でもあります。
---------------
5/7-8
僕は上記の体験で考えたことを改めてスペースやdiscordで話しました。
「自分が普遍的なコメントしか言えなくなっていることに最近気づいた。
 せっかく何かを認識してもそれがすぐに夢のように思えてしまって、漠然とした話しかできない。」
こういう話をしたとき、提示されたことが3つあります。

・体験が経験として定着していないので、まずは名前を調べてみましょう。
・読解力が不足していることも原因だと思うので、本を読みましょう。
・広く浅い人って関わりやすいし、そのままでもいいんじゃない。

どれもごもっともな意見だと思います。
なんなら最初に頂いた「名前を覚える」という話は納得する所が多いです。
知識があれば見分も話題も自覚的になる。僕が抱えるいろいろなことが解決しそうです。

特に直近で抱えていたのが「花の名前がわからないので、人とその話を共有して深堀りできない」ことがありました。
花などに興味関心をもって写真を撮っているものの、楽しむために調べる癖がないからただ気持ち悪い、で終わる。
そんな刹那的な消費の仕方はもったいないな、と感じ始めてきたのです。
そういった点でも名前を覚える心がけはダイレクトに刺さりました。

最初にも述べた通り、「勉強しろ」要するにこれ以外ないんです。
まだニワカな段階なのに、さも自分の経験のように半端なまま語ってしまう。
このままでは、認識と体験が瓦解し、より一層日々の捉え方が曖昧になっていくでしょう。

この状況を脱却するためにも、まずは目の前にある植物の名前から知っていかなければと思います。

---------------
【正しくないこと】
ただすみません、少しこの先の文章は気味が悪くなるかもしれませんが、本当に素直な自分を言えば
僕は結構、3つ目の発言を他人から言われたことに救われたような気持ちがありました。

そもそもの僕の行動原理は「多くの音MAD関係者の方々と交流を続けたい」ということに尽きます。
これを口に出してしまえば薄っぺらいのかもしれませんが……。
ただ、これはどうあっても逃れられないところとも思います。今この時も変えたいと思いません。
上の3つ目の提示はそんな自分にとって、初めて肯定されたような気がして、大変にうれしかった。

ですが、この発言の意図はわかりません。根拠も特に伺っていないです。
すみません、たぶん話の流れとして正しくない選択肢だったので、特に掘り下げてはいなかったのでしょう。
後追いにはなりますが、この発言の意図を自分なりに良きように解釈してみたんですが
「広くて浅いからこそ、いろんな人に関わろうとする軽さがある」と思いました。

……いや、無理な曲解ですかねこれは。 おそらく「正しくない」です。
普通に話の上手い人って見識はありますし、ちゃんと本筋を複数人に展開できるだけの器量を持ち合わせています。
僕はただ浅いだけなので、聞いても聞いても本筋以外のことばかり話してしまいます。
あれ、シンプルにこれも問題な気もするんですが……。あれ。
これはもう課題として、自分の話をしすぎ!というのも感じているのでここは直したい。

また、それこそ芋タルトさんから言われた「その選択がメリットになるかどうかを判断する」というのも
自分を肯定するためのヒントとしてあったりします。
今、変化することで優先すべきメリットがあるかと言われると……「自分を変えたい」とは一概に言えませんね。
ある程度の曲解がある今の方がよっぽど楽しいです。妙なところを気にしてしまう自分がいるから、
街を歩く時の発見が多いということも認めたいのです。したがって、広く浅い自分に嫌気がさしているわけでもありません。

昨晩、BaN長さんとも上で書いたような話を軽くしました。曰く、BaN長さんも自身のことを「広く浅い」と捉えているようです。
(僕からすればBaN長さんは広く深いんですが……)
ただ、BaN長さんは一度体系的に勉強しようとしたうえで、それができない、自分には向いていないと判断したようです。
だからこそ「広く浅い」意識に振り切った。その結果が、音楽やテレビなどのディグにつながっているそうです。
自分の場合はそもそもとして

こういうことをここに書く自分は変わっていないのかもしれませんし、すでに変わっているのかもしれませんし
自覚もしているかしていないのか、そんなに美学を追及しているわけでもありません。
相変わらず曖昧な認識のままでこの文章を書いています。

「趣味は認識 特技は誤謬」というのを@AlarmOneOclockのbioに記されていますが、これは当時こそ何の気なしにつけたものの
今となってはかなり信頼のおけるフレーズになっています。

ですが、世の中には広く深い人間がいるのも事実です。
実際、秋田でお会いした方も僕からすればそういった方であり
もしかしたら、自分の目指すスタンスとしてはあの方が到達したいところなのかなあ……とも思いました。

おそらくこれまで言ってきたことへのハッキリとした正しい回答は「勉強しろ」となるでしょう。
しかし、今の自分にとっての命題は「植物の名前を勉強すべきか」ということになっていきそうです。



---------------
(5/15時点での記述)
【今考えていること】
これまでの記載事項も過去のことになりました。
今言えるならば「現時点では自分の輪郭を明確にしない方が良さそうだな」というのがあります。なんか、これ以上考えたところで窮屈になるだけかもしれないなとも思えて来た。
ただ、やっぱそろそろ寝ないと行けないのと、でもここで日記出さないと溜まって行く一方なのでリアルタイムでガシガシ書いていきます。

まず、記憶が確かなのに認識があやふや、というのが悩みになっていた理由には二つあって
・寝る前に夢を見る
・一日の時間が短い

で、このままだとどんどん毎日が高速になって曖昧になっていくのだろうかと思って不安になるような気分が4月末くらいにあったと思います。
それを各人に吐露したのが連休中。諸々自分にはない観点を聞けてよかったですね。
そうした中で上記のような「勉強する習慣を身につけて変化しなければと思った」とも考え始めた次第です。

ただ、興味が増えて勉強することが出て来たとはいえ、事実ではないことをそのままに表層だけをさらっている瞬間が事実を知ったその時よりも大変に楽しい。
これはもう、ごめんなさい、不道徳だとは思いますが
自分は勉強していないことによる楽しみを享受しているとも思います。
誤謬を楽しむ節があるというか。決して正しくないその認識が興味の手がかりにもなっているというか。誤謬を楽しむようになってから、明らかに認識の範囲は広くなっているとは思います。良いか悪いかで言ったら悪いことなのかもしれませんが。

でも、知識を得ることを避ける必要もないよな、とも思っている次第で
点在する認識を集約させる時間は持ちたいともおもっています。それが以前の日記で書いた「地続きにする」行程なのかなとも。

今は自分のための文章を書く時間が欲しいですね。散らばった時間を一つの精神性に定着させる時間が。


もうコロコロ言っていることが変わっています。寝ます。明日から日記再開します。

220429-220508

(5月8日時点での記述)
今日で連休らしい連休が一区切りついたので日記としてしたためます。
あ〜……何やってたっけ……。

0429
お絵描き生出ました。
意外と見ごたえのある絵が連続して驚きでしたね。

0430-0501
何やってたか覚えてないですね……。
たぶんこの期間はボカコレ流しながら生放送で流す動画を用意していました。
短期間で動画を進める感覚、久しく忘れていました。
これはもう自分で締切作らないとダメなんでしょうね。
何かに駆られる衝動のまま突き動かされないと、体が動かない。計画性なんてのは二の次で、その熱を絶やさない方針に振り切ったほうが良い。
今年の最初にも言いましたが、とにかく書き出すことなんでしょう。充足しないままでも出力すること。
反省や不満などは完成したと思ってからでも現れるもんなので、諦めて進展を貼るべきなんです。
出力の量が熱になるのだと改めて実感しました。
夜中、通話で「実現させること」の話になったのも印象的です。
年齢を重ねたくはないものの、体力と時間が削られるのは事実としてあり、その中でどうやって構築するのかを同年代の動画投稿者と話していました。

0502
区役所と公園に行きました。
朝9時合流後、まずは目黒区役所へ。
道中に象形文字のような図柄があったのが異様でした。
目当ての目黒区役所は無骨な窓が並ぶ外観が目を引きますが、内装も目を引く場所がいくつか在りました。
折り曲がったストローのような階段や屋上から見られる景色など、庶民的な空間ながらもわずかな造形の妙があり、
こちらも目を凝らしながら歩き回りました。
屋上庭園から見える景色はさほど高所でもなく、立ち並ぶ家々がしばらく先まで見える程度でした。その日は空が重く曇っていたこともあり、むしろ趣深かったです。
庭園には雑な配置で植物が植えられており、そのあたりから植物の話にもなりました。

11時頃に駒沢オリンピック公園へ。
移動自体はバスでしたが、都内でバスを利用する機会のなかった僕はこの時点で旅行の気分にもなりました。
いや、バスって乗り遅れたりするとリカバリー効かなくないですか。路線も複雑で、行きたい方向と車線を照らし合わせなければならないし、同じバス停からいろんな方面に行き先が伸びているし……。乗る前の緊張感が高いんです。

オリンピック公園は広かったんですが、我々は公園に限らず園内の施設や植物も一通り見て回りました。
先述しましたが、植物には本当に目を奪われてしまいます。気味の悪く、人間とは程遠い造形の生命体に囲まれていると思うと危機に思います。
皆、なぜ受け入れているのでしょうか。本当に「花は美しいもの」と思っているのでしょうか。目を奪われる行為を「美しい」と錯覚しているだけなのでしょうか。
駒沢オリンピック公園の大きな出入り口近くには見たことのない植物が並んで植えられており、大興奮でした。
これは誤解しないでいただきたいんですが、僕は植物のことを敵視していますが、結構好きな連中なのです。
花のことを知りたい、名前や咲き頃や生態が何なのかを知りたい。苦手意識から入る興味が一番長続きします。元はといえばまいばすけっともそうでした。まいばすけっとなどというふざけた存在が都内に跋扈していることが当時は許せなかったのですが、あの店舗の分布や細かな差異を調べるうち、いつしか多少の知識と偏見が入り交じる「興味」へと繋がって行きました。面白いもので、僕にとっての植物もそのような存在になっています。

公園を歩いている途中に話したことも今引きずっています。そこでは最近寝る前に「今日何をしていたっけ」となることを話しました。
確実に何かをしていたはずなのに、それらがすべて夢のように有耶無耶になるわけです。記憶自体はしているはずなのに、本当にそれを体験、実感したのか?と疑いたくなる。特に日付の感覚がないです。昨日起こったことと、数年前に起こったことが、同列のように思えます。おぼろげな認識が同じ標高に散らばっているような、気持ちの悪い感じ……「記憶は確かなのに認識があやふや」というフレーズが今の僕には近い気がします。
こういった話をすると、「自分のことと他人のことが混在しているんじゃないか」と返されました。
discordや直接会って話したことと、自分の所感がないまぜになっているとのこと。こうした日記を書くようになってから、自分もそういった感覚になっているので、本当にそうなのかもしれませんが……。
現に、僕はその日の通話内容のことも日記に書いているわけで、なんならただそれだけを記録して自分がどう思ったかを書かない日すらあります。後述しますが、その日出た指標めいたものに自分の感覚を合わせて、それを「自分なりの思考なのだ」と言わんばかりにしたためる日もたります。どうなんでしょう。この行為が先述した「記憶と認識のズレ」になるんでしょうか。どうにかして、「実感」を取り戻したいです。
あ〜、あと「正しさには肯定すべき」という風潮が嫌いなことも話したな……。これはその数日前に筋トレの話から派生したんですが……。ここに書くと変な話が一層ややこしくなりそうなので割愛。とにかく、細胞って正しいはたらきをしようとするから刃向かいたくなるんですよね、とは話しました。

13時頃、世田谷区役所へ向かいました。
同伴者の空腹加減が限界になり、先に近所のカレー屋でご飯を取ることに。小物も凝ったカウンター席、如何にもな個人店らしい雰囲気の中食べたサンドイッチは塩っ気の効いたチーズとカレースパイスの濃い味で、僕自身の疲労にも相性が良い味でした。後ろでは外注するときのデザイン代なんかの話を店主がしていました。世間一般の年配が考えるデザインへの意識が聞けるんじゃないかと思ってたんですが、あんましわからなかったですね。

お店から引き返したあと、まずは世田谷区役所の外観をぐるっと一周。
垂れたシミが年代を物語るコンクリート建築。よくこれだけのアンティークが残ってるもんだと思いましたが、どうやら改築工事中らしく、今の状態が続くわけではなさそうです。まあ、中を見て回った時に感じたのですが、もろとろ不親切な設計にはなっていそうですね。特に通気性などは……。
それでも人のいないフロアなどに出たりすると神秘的に思えてくるぐらいには時間の経過を感じるわけです。失礼な例えですが、廃墟に立ち入る際の空気感でした。僕もそういうところに見入ってしまうわけです。
いや〜特に区議会あたりのフロアはとんでもなかったな……。流石に見物人も来ないのか、途中職員の方から何か御用ですか、と聞かれましたが。素直に見物です、と伝えたら特に聞かれもせず通されました。慣れてるのかな。
それにしても区役所は、働いている人が間近にいるのでそれもまた申し訳ない気持ちがありますね。呑気に入り込んでいる自分らが異物であることは承知しつつも、やはり目先の好奇心には勝てません。

夕方からはツクダオリジナルのCMを見る生放送しました。
先日まで作成していた動画の公開含めて、まあ緊張ですよ……。久しぶりに自分のバトルドーム音声に映像をつけるわけですからね。しかもそれを公開する。
一連の流れが当時の感覚を僅かでも連想させたならばそれは狙いなんですが。自分でも公開以後の実感はイマイチわかりません。エンジンもかかったのかどうなのか。いや、かけたってことにしておきましょう。
今回の生放送は形式をある程度整えて臨みました。
複数人の参加者各自にCMがどのように映ったかを尋ねながらセクションごとに進めていく。CMは総尺1時間だったところ、話も弾み放送尺は2時間30分となりました。途中ヤフオクの話になった時は盛り上がりましたね。結局まだ買ってはいないのですが……。「実機からの録音」は一度やってみたいところ。その視野で再度CMを調べるのもアリかとは思います。また、僕は音声中心に見ていたことに対して他の方は映像面も取り上げていたことにも関心がありました。この動きBBで抜けそう、アニメ映像としても使用できそう、などの観点は自分自身あまりなかったです。ついつい音の新規性に耳が行ってしまいますね。発見は多かったです。
生放送自体は楽しかったのですが、生放送中についた「CMを素材目線で見るのなんかやだな」というコメントにはハッとさせられました。無意識に僕は「素材」という言葉を使っていたわけですね。自分と他人に認識のズレがあることが自然に現れていたんだと自戒しました。確かに、CMを勝手に拝借して再編成しようとしている行為はもっと慎重に行うべきかもしれません。CMの持つ、元の面白さを引き出すようなコンセプトは認められても、それを封殺するような原型の留めない編集は、ときに反感を生むでしょう。
もしくは、CMはCMとして、素材は素材として、扱う状況によって言葉を分けるべきという指摘だったのかもしれませんね。こちらも、その配慮には納得するところです。誤った意味合いの言葉を用いれば、それが広まって厄介な問題になり得ますし。どちらにしても、考慮が浅かったです。
ただ、ごめんなさい、正直なところつい「素材」と口走ってしまいます。言葉の持つ無礼さはイメージとして承知しつつも、僕はMAD素材としてのツクダオリジナルしか知らないのでどうにも現実感がない。もちろん、ツクダオリジナルという企業に情動がないわけです。数々の玩具を生み出してくれた敬意は払うべきだとも思います。しかし、自分がツクダオリジナルを最初に認知したのは音MADからなのでどうしてもその認識は拭えない。1に音MADがあり、2にCMがある。強引な話ですが、自分に染み付いたその視野が浮き彫りになり、それを再認識させられました。
まあ、ここまで深堀りすべき話でもないとも思いますが……。ただ、状況によって言葉を使い分けろ、というところで解決するとも思います。いずれにしても、自分の潜在意識を突かれた気がしてドキッとしました。

0503
格ゲーオフやりました
この日記にも再三書いていますが、GuiltyGearSTRIVEにハマりきっています。その熱が高じて他の格ゲーにも興味が渡り始め、今回は「いろんな格ゲーをしよう」という名目のもとオフを呼びかけました。
プレイしたゲームは合計で7本 うち印象深かったのは「ツインゴッデス」「アルカナハート」「KOF」の3本ですかね……。ツインゴッデスに関しては調べればわかると思うのですが、全8体のキャラに実写のキャラが何故か3体入り交じるというイロモノの格闘ゲームです。戦闘画面でいざドットのキャラと人間のキャラが対峙するとかなりのミスマッチ具合に戸惑います。ドットのキャラクターの造形がよくできている分、つんのめってしまいますね。
途中までは少ない技を手探りで出していたのですが、同伴者が調べたところ、どうやら技の自由度はもっと高そうだぞ、ということが判明しました。アイテムと魔法を使用して戦闘に展開を生む、というシステムは面白かったです。
アルカナハートは女性キャラが飛び回る格闘ゲームでした。キャラクターが全員女性キャラ、というのも個人的にヒット。全員トゲトゲしいデザインで、可愛さエロさの中にカッコ良さが含まれる、格闘ゲームの女性キャラに求められる魅力が詰まっていますね。技を出すボタンの一つがダッシュに当てられていて、これが空中戦に必須の要素なんだとも思いました。
KOF」は純粋に好きなキャラが2人ほどいて、それを使いたいな、というくらいです。ガードを崩しながら体力を削っていく、いわゆる差し合いの格闘ゲームというのも触れていきたい……な。
ウィップの腰を振る待機モーションがエロすぎて好きです。格ゲーを女性キャラで見過ぎかもしれん……。もう入り口がデッドオアアライブなので仕方ないんだが。

夜から咲崎(♂)氏のウマ娘MADを見る生放送に出ました。前日に日程が決まってしまったのでかなり急でしたが……。
まだ限られたキャラクターの音MADしか出ていないんだな、と改めて思いました。
放送中、たいうお氏が影莉央氏の音MADを語る生放送がしたい!と言っていたのですが、その放送は結構見てみたいですね。投稿者自身が自分の投稿した語ることはあっても、他者が特定の投稿者を語る生放送はなかなかない気がします。自分が個人の作風をあまり見ることができないので、そこまで推せる投稿者がいる、というのは憧れもあります。

0504
宇都宮に行ってきました。
前々から行きたかった……というよりも、現在関わっている企画に必要なものであったので、それをきっかけに取材がてら訪れた次第です。
今までも街を歩く機会は何度かあったんですが、明確に使用する用途が決まっている状況を通して街を歩くと見えてくるものが違いますね。
多少分析的になるというか。同伴していた方のうち一人が栃木に大変詳しく、石の材質が地元のものを使用していることだったり、県木のトチノキを指示してくれたりしたおかげで宇都宮らしさを考えることがスムーズにいきました。
それにしても地元を歩くだけでエピソードが尽きずに出てくる、というのは凄まじいですね。自分はそこまで地元に愛着が湧くか……と言われるとハッキリと言えません。
でも、エピソードならあるかな……たとえば、高校の頃この公園で同級生と毛布で喧嘩したとか……。う〜ん、でもそこに行き着くまでの経緯が思い出せない。
一つの場所からそれ以外の5W1Hを思い出せる人のエピソードは聞いてて飽きないです。
帰り際に神社へ寄ろうとしたのですが、「冷やかしで行くところじゃないかも」と言われたので境内に入ることは控えました。時間が迫ってたこともあるので帰った次第なのですが、その発言を聞いたとき、神社って特に用もなく入る場所じゃないんだ……とも思いました。実を言うと「冷やかし」という心境が未だにわかっていないところがあります。ここ数年で色んな場所に立ち寄るようになってからその言葉を受けるようになったのですが、イマイチそれがわかっていない。まあ、用もなく立ち入っている人間のことを邪魔だなと思う気持ちは理解できますがね。おそらく客商売をする人間から見た視点なので、自分にそのつもりがなくともそう見られたら「冷やかし」なのでしょう。他人から見られた自分という意識が欠如するとこういったところにいちいち噛み付いてしまう人間になるんだな……と自分の身勝手さを省みる瞬間でした。

新しい靴を買いました。靴って消耗品なんですか?自分の吐き方が悪いのは知っているんですが、軽く検索をかけてみると最短2年くらいでダメになるっぽいですね。
これまで使っていたのも決して安い靴ではなかったんですが、やはり高い靴買えば以前よりちゃんと履くのでは?と思い12000円のシューズを購入。多分僕の中では一番高い靴を買ったと思います。真っ赤な靴なので、下手に目立つかもしれないですが今後お会いする機会などあれば何卒
それにしても靴底があるって最高ですね。いかに地面から受ける抵抗が強いか、その変化を以てして体感しました。

0505
10時間弱でライフ(大阪・東京に展開するスーパー)を15店舗巡りました。先述した「冷やかし」の最たる行為なのかもしれませんね。
一日でどれだけライフをめぐれるか、ということに心血を注いだので移動が中心になってしまったのですが、それでも降りたことのない駅に降りるのは新鮮でした。
ただ、降りたところで向かうのは同じライフなので、感覚としては妙でしたね……。見せごとの変化はあってもやってることはただ一つなので、途中視野が狂いそうになりました。なんならライフに向かう道中の団地だったりがわりと印象に良く刻まれています。街の造形の機微というか、各地を巡ることでそれが再認できましたね。
で、ライフ自体はというと、とにかく亀戸のライフがすごかった。ライフを取り上げる上で欠かせない要素としては「木造チックでスローライフな飾り棚」があるのですが、これが容赦ない凝りようで各コーナーに散りばめられていました。特に鮮魚コーナー、三角形状に並べられたワゴンに囲まれたスペースをまるごと船のような飾りで埋めていたのは大胆でしたね。油彩の静物画のような風情すらあります。また、ウイスキーの陳列では下からライトを照らし、まるでバーカウンターのような美しさも演出しておりました。あそこは飾りに心血注いでます。
ライフ行脚においては、手描きポップに潜むララピーの差異を楽しむもよしでしょう。おそらく店員がこしらえているであろうララピー達は、時にぷっくりと丸く、時につぶらな瞳で、またある時は折り紙で作られて、さらには小さなブロックで作られる者もいます。
また、ララピーのぬいぐるみにも個体差があり、バラバラの大きさのララピー達がざっくばらんに並べられていたのを見た時には、ああこいつらも繁殖するんだな、と多少ゲンナリしました。
まあなんだかんだいい時間を過ごせたなとは思うんですが、たぶん当時の心境としては遍路道に近く、悟りの境地に近いです。 また行きたいですね。心して。

0506
秋田に行きました
建築と廃墟が主だったのであまり観光的なことはしていないのですが、何よりも初対面の方と各所巡った、ということは代え難い時間でした。
最初に寄ったのは秋田市立体育館。イベント等ない限りは中に入れないとのことでしたが、曰く内装もすごいとのこと。
思った以上に大きく、外を一周するだけでも10分ほどかかりました。さながら宮殿のような建築だったのですが、一枚に収まりきらなかったですね。
その次は某廃墟へ。ホテル・プール・スケート場の3つがありました。地元の方と一緒だったこともありますが、これまで巡った廃墟よりもだいぶ散策しやすかったです。あまり詳しく書くべきじゃないとは思うのですが……。まあ自分用なので。
あまり荒らされた形跡も少なかったんですが、同伴の方は前回よりも落書きが増えていたとおっしゃっていました。たぶんこれから荒らされて、また一層入りづらくなるんですかね。当然な流れかもしれませんが。なんにせよ今行けてよかったです。
プールの廃墟が本当に美しかった。大きなスライダープールがあったのですが、鮮やかな塗装がそのままに残っており、廃れた空気感の中にも何か楽しげな空気感の残る、幻想的な建造物でした。天気も良かったので、思わず長居してしまいましたね。ああもう一度行きたい。
そのあと夕日の照らす武家屋敷をぐるっと周り味噌のきりたんぽを食べ、昔ながらのゲーム筐体やラーメン自販機の残るドライブインに立ち寄り、車を運転していただいた方のお家で一泊させていただきました。いやあ、マジに申し訳ない。そしてありがたい……。
ちょっともろもろ後半行く予定だったところが軒並み閉まってたりしていたので、つくづくこの情勢下における遠征は営業時間をチェックしておいた方が良いと思いました。自分は大丈夫なのですが、同伴していた方が少し残念そうだったので……。ホント、ここ2、3年でもう一度いきたいですね。

車移動中、その方と音MADの話ができたのも嬉しかったです。
いろいろ今年にやりたいことだったり、なんとなくの現状であったり、自分も刺さるお話が多かったです。
こだわりやハードルが大きすぎて形にできない時の共感が大いにありました。手を動かして出力するのが正義とはいえ、徹底することを先に優先してしまうことなど、まあ、効率的ではないかもしれませんがそこに陥りがちだよね、と……。
しかし、自分と近しい現状の意識を持ちながらも、活動を留めずいろんなことに関わっている方でもあるので、自分にはない活力に満ち溢れている方だとも思います。その点では自分も鼓舞されました。

歯ブラシを買ってなかったな、と思って1人でコンビニまで歩いたのですが、本当に暗い。
24時付近なので家の明かりもなく、自分の足元すら見えていなかったのですが、久々の暗闇には興奮しましたね。普通に怖かったのもあります。
あー遠くに来たな、という実感もそこで湧きました。

0507
翌朝、おにぎりとソーセージを朝ごはんとしていただきました。本当にいろいろとしていただいてありがたかった……。
いつかお返ししなければと思います。何も用意できずすみません。
そもそも朝ごはんをいただくこと自体が何年かぶりだったのでありがたみも一塩。あ〜暮らしらしい暮らしが本当にできてないんだなと自分の生活を省みることにもなりました。

そう行った形で、秋田は初でしたが、発つ時にはなんとなく郷愁もありました。
先述もしましたが、また行きたいですね。

220510

まあ、日記書きましょうか

連休の時の日記、もう書いてあるんですけど、なんかいざ読み直すと恥ずかしくてね……そんなもんなのかな
恥ずかしいってか、かなりまた思ってることが変わってるって感じです。
時間を長くするという目的に果たして合ってるか、と言われると、むしろ自分をどうしたいかがないがしろになってたかも

今日は、地続きで思考したほうがいい、ということと、自分の輪郭はあいまいにしないほうが良い、という誤謬を覚えました これは正しくないとは思いますが、なんとなしの考えとして……